1840年 終末の序曲が始まった。プロイセンがオーストリアに宣戦。オーストリアは覇権を認め、さらにバイエルンを割譲した。続いて、プロイセンがフランスに宣戦。アルザスを獲得し、ここにドイツ帝国の建国が宣言された。(当然、これは合意の下行われた。)
しかし、ここで予想外なことが起こる。
ここでイギリスが工場を全て閉鎖し、ランクを下げ、フランスに宣戦したのだ。(マルチルールでランク上位国はランク下位に宣戦できないため、イギリスからの先制攻撃は不可能と考えられていた)
オーストリアはフランスとの同盟を履行し、参戦した。が。
オーストリアはドイツが信用できない為既に白紙講和を半年後に締結する案を出しており、イギリスもこれを了承していた。正直、かなり妥協してでもこの戦争から逃げたいというものだった。実際、オーストリアの国境の兵士は全て北部に集結させ、総動員まで行ってドイツ国境の防御を固めた。
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やはりというか、ドイツはフランスの対英防衛戦争を拒否し、それとは個別にイギリスを形だけ攻撃し和平した。つまり、裏切るというよりは我々を出し抜いた。
フランスはかなり怒っていたが、思っていたより自分は冷静だった。フランスは復讐戦を主張したが、ドイツがバイエルン返還を約束したので正直、興味はなかった。フランスやロシアが領土をとるのも正直、とんでもない! だったのだ。ロシアのポーランド解放案なら受け容れられたが、フランスのラインラント奪取案は正直ありえない。却下だ。
その後、オーストリアはドイツに続き、イギリスと白紙和平した。
ドイツ、オーストリアの白紙講和とロシア軍のインド方面での撤退を受けて、また強固な海上封鎖を受けて、フランスはサルデーニャ、ブラジル等の勢力圏手放しを承諾して和平した。
このサルデーニャのイギリス獲得はフランスとの緩衝地帯がますます強固になり、サルデーニャが中立化することによってオーストリアはフランスとの協定をやぶって東スイスを獲得することで完全に国境の安全を確保できるようになった(山脈効果D+2で。)。のでスイスの友好度を下げまくりんぐ。CBこないかな?
しばらくして、フランスはスイスから撤退を宣言し、オーストリアは合意を破らないまま、スイスを獲得できるようになった。
また、イギリスからサルデーニャの勢力圏を譲られ、対フランス防衛線が事実上完成した。
この講和後、全体的に外交全体の主導権・利害調整の主導権もイギリスの手に渡り、イギリスがゲームを支配する時代が始まったようであった。
BBR的に高い買い物が多いオーストリアだが、戦後まもなく、 戦後、CBが来たので教皇領フェラーラ、オスマン領ボスニアを併合した。やったね!
また、この頃ルールに変更があり、スコアではなく軍事スコアによって宣戦を制限することになった。もちろん、これはイギリスの例の行動を受けてのことだった。あの一度は感心したが、毎回みんながやるとルール崩壊になるので、まぁ、妥当なところではあったが、軍事点の高いややドイツがかわいそうではあった。