19世紀はまさに「国家」と「国民」が急速に理解されはじめた世紀と言えるだろう。
急激な産業、科学の発達は人々に膨大な富と物、そしてわずかながらの時間を与えた。
ある者は富を持ち、より多くの富を求め、すなわち市場の拡大を目指し積極的に行動をおこし、
またある者は、自由や平等について議論した。
このような状況の中で人々の間では旧来の小さな世界観は崩壊し新しい世界観が構築された。
ナポレオン戦争から芽生えウィーン体制の間に育ったナショナリズムの高揚はその一例といえる。
国民と呼ばれるものが国家(またはより小さい団体)に対し従属のみするという時代は終わり、
国民が国家を利用しより多くの利潤を獲得しようとする時代になった。
ドイツ人によるドイツ建国を目指す政治的な動きは遅くても、
1834年ドイツ関税同盟が発足された時点で盛んに議論されていた。
ドイツは神聖ローマ帝国から続く政治的分裂をしており、その統一は
より大きな市場、経済圏を求める富裕層などに支持されたいた。
しかしこの統一においてある問題が発生した。
それは二つある大国、プロイセンとオーストリアのうちどちらが中心となってドイツを建国
するかという問題である。
プロイセンの大半はドイツ人で構成されており、北部諸国の支持を受けドイツ関税同盟を発足した
急成長を続ける国家である。
オーストリアは政治中枢を握るのがドイツ人であるがその人口は2割ほどでしかなく多民族国家であるといえる。
それぞれプロイセンを支持することを小ドイツ主義、オーストリアを支持することを大ドイツ主義と
よばれた。
地理的要因からそれぞれ南部はオーストリアを支持し、北部はプロイセンを支持した。
(南部においては北部中心の関税同盟では恩恵を受けにくいからであり、北部においては
巨大な市場が付近になかったという経済的要因もある)
オーストリアはオーストリア継承戦争や7年戦争におけるプロイセンからの敗北から斜陽を迎えている
国家とされたいた。
多民族国家としての問題点を抱え、列強内でも政治的に大きく遅れているといえる。
オーストリアによるドイツ建国を目指すにあたりいくつかの問題点を克服しなくてはならない。
・デンマーク内に多数のドイツ人が住むシュレスヴィヒ・ホルシュタインの問題
・小ドイツ主義を掲げるプロイセン及び北部諸国
・フランス領であり旧神聖ローマ帝国領アルザス・ロレーヌ
の3つが主な問題である。
プロイセンはフランス、オスマンと同盟しオーストリアに対抗し、
オーストリアはスペインと同盟をした(墺西同盟)。
プロイセンは小ドイツ主導のドイツ建国のため、またオーストリア牽制のためにデンマークへ宣戦布告
をした1836~1837普丁(プロイセン・デンマーク)戦争。
翌月オーストリアは北部におけるプロイセンの影響力拡大を懸念し、
デンマークへ宣戦布告をした1836~1837墺丁(オーストリア・デンマーク)戦争。
陸路で進軍するプロイセンに対し、海路で進軍したオーストリアはデンマーク首都を攻略し
講和会議によりシュレスヴィヒ・ホルシュタインを獲得した。
この出来事により両陣営の軋轢は増すこととなった。