プレ八紘一宇-とりあえず、朝鮮をなんとかしたい/1867年から1872年まで
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1867年から1872年まで
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[[AAR]] [[プレ八紘一宇-とりあえず、朝鮮をなんとかしたい]] +[[A *プレ八紘一宇-とりあえず、朝鮮をなんとかしたい/1867年から1872年まで [#g1e468e1] 閣下。 作者の頭痛がひどくなって、執筆が3週間も遅れてしまいました。 この1867年から1872年は実はほとんど書くことがありません。 次章こそみなさんが気にしている内容のような気もしますが…。 **1867年~1868年。東南アジアの覇者 [#a83854f7] まず、ダイナムに対して租借地割譲でCB作成をします。 もちろん、狙うは最後に残るステートであるベトナム領ラオス。 1867年1月に開戦。ただちに首都方面に攻め込みます。 #ref(18670128.jpg); ダイナム軍は東南アジア派遣軍の敵ではありません。 翌月にはわが国に降伏。ラオスを手放します。 #ref(18670216.jpg); 続いてシャムに対して攻勢をかけます。 シャムは関係性をFriendlyまで持っていっていたのですが、以前の戦争で友好度は悪化。 Friendlyのままでは戦争を仕掛けられませんので、Cordialに関係性を後退させます。 #ref(18670427.jpg); 狙うステートはマラヤ方面ではなく、ラオスと隣接するナコーンラーチャシーマー(Nakhon Ratchasima)((どちらかというと、この領域はイサーンと呼ばれる地方である。なぜか海への出口まである広い地方となっているが…。))です。 シャムも以前の戦争から立ち直っていないらしく、ほとんど抵抗できません。 #ref(18670726.jpg); シャムは抵抗を諦め、わが国にナコーンラーチャシーマーを割譲することで和平を受諾。 わが国はここにインドシナ植民地の建設を宣言しました。 **1868年~1871年。…なにもやることがない時期。 [#m34791c4] ヨーロッパのほうでは盛んに戦争が行われていますが、アジアはわが国との和平期間にある国が多く、戦争もなく平和な時期でした。 とはいえ、1870年は重要な年です。 第4世代技術が解禁される年であり、つまり、植民地建設のために必要な「植民地建設のための交渉術」を発明できるようにする技術が研究できるようになるのです。 #ref(ColonialNego.jpg); マシンガンMachine Gunsをとるか、海軍兵站Naval Logisticsをとるかはどちらでもよいかもしれません。(後者は補給限界が増えるので、海を越えて植民地建設するならばそちらのほうがよいでしょう。) なお、この時期になぜかオマーンを侵略してアフリカ東岸の領土をすべて奪いました。 **1872年。第2次日清戦争 [#d9c6ad4f] 和平期間が終わったことを受けて、わが国は再び清国との戦争を決意します。 清国は人口ではわが国よりはるかに多く、この国が近代化した暁には膨大な国民軍を投入して、山東方面にあるわが植民地を奪還しようとするでしょう。 (自国のコアステートであれば、CB作成なしにいきなり開戦できる。したがって、わが国はつねに清国の進攻を受けそうな国境に軍をはりつけておかなければならない。) このため、わが国は最終的に清国を勢力下に置くことを決断。 先の戦争では彼我の戦力にほとんど差がなかったため、戦いは短期に終わらせるほかありませんでした。 今回も敵の戦力はわが軍よりも優勢であり、短期決戦かついかに敵に対して被害を負わせるかが重要となります。 作戦領域は江蘇Jiangsuです。 山東方面の軍は防衛的に配置しますが、陽動として江蘇ではなく、河北方面に侵攻します。 江蘇自体は海からの大規模上陸によって短期占領します。 わが国は1872年9月、清国に宣戦布告。 #ref(18720930.jpg); 江蘇沿岸部に続々とわが軍が上陸。 清国軍はあまり抵抗らしい抵抗をしてきません。 (これはおそらく、開戦直後の低い指揮統制値を回復しようとしているようです。) 江蘇方面は敵の撤退によって、早期に全域が占領されました。 前線はさらなる進撃を企て、安徽Anhui方面へと展開。 これが敵の罠でした。 敵は反転攻勢に出て、安徽および浙江Zhejiang方面に進出したわが軍を攻撃。 わが軍は予備兵力を投入し戦線の維持をはかろうとします。 浙江方面では戦線を持ちこたえられたものの、一部の敵軍が背後の江蘇の再占領を企図しました。 また、安徽方面では50万のわが軍に対して清国は300万という大軍を動員。 このままではわが軍の戦線の一角が崩壊し、全戦線が危機に瀕することは間違いありません。 わが国は清国と和平交渉を開始しました。 清国も膨大な戦力を投じているものの、開戦以来受けている被害は甚大で、これ以上の戦争継続は不可能と判断。 1873年1月、江蘇の割譲を持って、第2次日清戦争は終結。 #ref(18730122.jpg); わが軍は虎口を脱し、割譲された江蘇へ撤退しました。 しかし、戦いの傷をいやす平和の訪れを歓迎しながらも誰もが第3次日清戦争の勃発を予感していました。 前:[[プレ八紘一宇-とりあえず、朝鮮をなんとかしたい/1850年から1860年まで]] 次:[[プレ八紘一宇-とりあえず、朝鮮をなんとかしたい/アフリカ篇]]
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